『ヒトの真似をしている偽りの物体に過ぎないのよ』
『ほら、あなたの中に暗くて何も見えない、何もわからない心があるでしょ』
『本当のあなたがそこにいるの』
《私はわたし。私はこれまでの時間と、他の人達とのつながりによって、私になったの》
「他の人達との触れ合いによって、今の私が形作られているの」
《それが、絆?》
『それが、絆』
(以上、EVANGELION ORIGINAL Ⅲより抜粋)
://呟き苦悩。
僕はヒトの真似をした偽物?
俺はなんなんだ?
なぜここに存在し存在しているんだ?
時々思うんですよね。
出来たオトナは、
『自分探しなんて馬鹿らしい』、
と一蹴しますが、
それが正しいのか。
青年期に入った我々高校生は、
自己の起源について深く考える局面に差し掛かっているのではないのだろうか。
どこへ行くべきなのか。
それを探すのが『魂跡辿り』であり、
『自分探し』なのではないでしょうか。
オトナは
『自分はそこにいるのに探しに行くのは変だ』
と一笑するだけでしょうが、
『自分』の定義さえ曖昧な現在《イマ》です、
アバターが自分自身だという人がいてもおかしくありません。
本来分身でしかないはずのアバターに自分という存在を譲れるほどの価値がありうる今日、
他人が自分となるような不定の定義なのです。
定められた義《いみ》がない自分を探す旅。
《他人との触れ合いやぶつけ合いによって、》
《自分という彫刻が削られ、》
《形作られていく。》
そう自分が形成され、
蓄積されたのが絆と謳った一昔前の喜劇は、
正鵠を射ていた気がしてなら無い。
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